光の杖(WJ封神演義・天化×太公望)


五章 人の望むもの


 「紂王の暴虐はさておき、殷の制度には見るべきところがあると
  思います」
 食堂に入っていくと、周公旦が話しているところだった。
 隣は楊ゼン、その向かい側に太公望が座っている。三人に挨拶して、
天化は軍師の横の椅子についた。
 「おう天化。
 「武成王は、まだ後方の視察から帰らぬのか?」
 「んー。
 「そろそろ戻ると思うさ。
 「お、サンキュ、武吉ちゃん」
 太公望のおしかけ弟子が膳を運んで来てくれた。
 「いいえ!ぼく、これぐらいしかできなくて」
 どうも、夕食の時間が政治関連のディスカッションに充てられてい
るらしい。武吉同様、自分が聞いていても面白くないだろうとは思っ
たが、天化は立ち上がらなかった。
 太公望の声を聞いていたい。
 軍師は前に向き直り、
 「なるほど、合理的だのう。
 「では周公旦よ。具体的には、どこを挙げる?」
 幸せそうに里イモを頬ばりながら尋ねる。よく見ると、箸はもう次
のおかずをつかんでいた。ちなみに高野豆腐だ。
 「そうですね…やはり、文字による伝達と貨幣制度の創始。
 「この二点ですか。
 「殊に貨幣制度は、離れた複数の地点間をより等価に結ぶことができ、
  たいへん斬新かつ合理的なシステムだと高く評価しています」
 「成程…周公旦くんは、流通を重視してるんだね」
 楊ゼンが茶を置いて頷く。
 「ええ。
 「私は、情報や物資の円滑な流通こそが、これからを決めていくと
  思いますね。機構としては副次的なものですが、流通あってこそ
  健康な経済が構成される…
 「つまり、流通は国家の血脈、基盤でさえあり得るという事です」
 さすがに躾と言うか品がいい、周公旦は喋る前にちゃんと箸を置いた。
 太公望とはえらい違いだ。
 「うむ…経済の不健康な国は長続きせぬからのう」
 むぐむぐ。
 姫家の四男が細い目を見開いた。
 「意外ですね。
 「あなたは、国の根幹を農業だと考えていると思っていましたよ」
 「それは間違ってはおらぬぞ。
 「農は流通経済即ち商へ、また工業生産の発展へ、あるいは軍事即
  ち兵へと連続してゆく。
 「これをして言わずば、何を根幹と言えようか?」
 軍師は、箸の先に刺さった花形人参を振り振り言った。
 「…全く、驚いた人ですね」
 周公旦が溜め息のように呟く。
 天才道士は小さくかぶりを振っている。
 「その手にかかると、すべてが一直線上に並んでしまう…」
 つと手を伸ばし、太公望のあごについた飯粒を取ってやった。
 天化は、何か頬にぴりっとした感覚を覚えて首を傾げた。
 「それ政治なり、だのう。
 「もっとも、人の営みとは大元を辿れば一点へ集約されてゆくもの
  だ」
 「一点…」
 なんとなく繰り返す天化に目を向け、軍師はしっかりと頷いた。
 「うむ。人が生きてゆくこと、これだよ。
 「よりよく、より豊かに、より便利に…人はそう望みそう発展し、
 「我々はこの理念に沿って進んでおる。ならば誰が、我々の発展と
  勝利を疑い得ようか?」
 「スース…」
 皆の口許がかすかに綻んだ。そしてすぐに、決意に引き締まる。
 天化は箸をくわえたまま俯いた。
 この人は、どれだけ誓わせたら気がすむんだろう?
 ついていく。
 その導きのもと、命の限り戦う。
 迷っても、
 疑っても、
 最後のところではわかっていて、そして信じている…
 皆も、自分も。
 小さく頷き、紫陽洞の道士は顔を上げる。楊ゼンと目が合った。
 ふいと逸らされる。
 「…?」
 ちょっと不審な反応…
 しかし天化は、深く考えなかった。食べるのに集中する。
 大家族に生まれ、またコーチとの熾烈な生存競争に鍛えられて、
天化は早食いだ。後から来たにもかかわらず一番に食べ終わり、
 まだ皆が食べているのでタバコに火をつけられない。
 勢い手持ち無沙汰になった。
 「M1からM2、M3またM2+CDへの移行差を指標とする時、
  マネジメントとしての経済にはある偏差が生まれる。
 「これに伴う誤差は可能性の数値として修正されねばならぬが、
  マネー・サプライにおける偏差の度合いは景気の動向、或いは
  傾向をより特徴的に表現するのだ…」
 太公望はますます調子よく喋っているけれど、さすがにもう聞い
ているのが苦痛になって来た。 何を言ってるのかわかりゃしない。
 紫陽洞では一度も出たことのない話題なのは確かだが。
 「スース、えむわんって何さ」
 一応聞いてみる。
 「うむ。
 「金融機関を除く地方公共団体や個・法人の保有通貨のうち、現
  金及び要求払い預金の合計を言う」
 「要求払い預金?」
 「普通預金や当座預金などの、流動性の高い預金種だのう」
 天化は小さく溜め息をついた。さっぱり脳味噌に届かない。
 「お先」
 椅子を引いて立ち上がった。
 「おお、早いのう」
 そりゃまあ、元々早食いな上に軍師たちは議論しながら食べて
いるのだから当然ではある。
 「そうだ」
 太公望がぽんと手を打った。
 「天化、あとでわしの部屋へ来てくれぬか。ちと話がある」
 「行くさ」
 天化は即答した。
 どこかで、ぴし、という音。
 (?
 (気のせいさ?)
 天化は、知ることがなかった。
 彼が食堂を出て三秒後、楊ゼンの湯呑みがゆっくりと二つに別れ
たのを…
 さて。
 食堂を出た道士は、ぶらぶら練兵場へ向かった。
 篝火が入っていた。日はとうに落ち、地上の熱がゆるい風に乗っ
て天へと帰っていく。
 少し肌寒いが、ものを考えるにはちょうどいいと思った。
 いや…ものを思うには、だろうか?
 「……」
 赤面してしまった。
 思春期の少女じゃあるまいし。
 火の番から顔の見えない隅の木箱に腰掛けタバコを取り出す。
 ふと、西門が騒がしいのに気付いた。親父が帰って来たようだ。
 少し時間がつぶせるな、と天化は腰を上げた。


 「スース」
 扉を軽く叩くと、返事があって中から開いた。
 「やあ、遅かったね」
 楊ゼンが顔を出す。
 「あれ」
 思わず周りを確かめた。部屋は間違えていない。
 「おう天化、待っておったぞ」
 太公望の声もした。
 「ああ…
 「親父が帰って来たんで、馬の世話手伝ってたさ」
 自分の部屋のように案内する天才道士に従いながら、天化はもご
もご呟いた。ムッとした調子にならないように気をつけたが、なぜ
そんな必要があるのかわからない。
 「で、話って何さ?」
 太公望は軽く頷き、
 「うむ。
 「今、楊ゼンとも話しておったのだが…」
 先日の地図を卓上に拡げる。
 楊ゼンが四隅に文鎮を置いた。
 「この前行った町は、他所から離れておるだけに豊沃だったで
  あろう?」
 「だったさ」
 「あの町をのう、こちらの側に引き入れておきたい」
 「ふん?」
 天化はタバコに手を伸ばしかけてやめ、もぞもぞ座り直した。
 軍師の部屋に灰皿はない。
 「いや実はな、街なかでのあの三人組とのやりとりを見ていた
  者があってのう。
 「わしの朱筆に気付いて、内々に接触して来たのだ」
 「って、つまり…
 「朱筆をあんなことに使ったのを見られたってことさ」
 鋭いツッコミに、太公望はあさってを見上げた。
 天才道士がとりなすように笑う。
 「まあ…それで、面白い人だって事になったんだし。
 「ちなみに相手は、町の実益を握ってる権力者でね。中々の人
  物なようなんだ」
 「うむ。
 「それであちらは、協力できることがあれば、と言ってくれて
  おるのだがのう。
 「今の所、あからさまに周に味方させて朝歌の不興を買わせる
  のも、あまりよろしくない」
 「あそこは我々の進軍ルートからやや外れてますからね」
 「そうなのだ。
 「まあ、あちらの気持ちもわからぬではないが。
 「あの豊かさが中央に知れれば、いずれ徴発を受けるのは必至
  だからのう」
 「なるほど…」
 楊ゼンが考え深げに頷く。
 「状況はわかったさ」
 天化はややつっけんどんに言った。
 目の前の二人のツーカーぶりが、何だか面白くない。
 「それで、俺っちは何すりゃいいさ?」
 「それなのだが…」
 ぱむ。
 打神鞭がかるく地図をはたく。
 町へ続く間道を指していた。
 「この道に沿って、竹藪が続いていたのを覚えているか?」
 「ああ、そいや…
 「けど、軍を伏せられるほど広かなかったさ」
 「うむ、軍は無理だのう。
 「おぬしも見るべき所はちゃんと見ておるではないか、天化」
 「そりゃまあ」
 天化はこっそり鼻息を噴いた。
 軍師の打神鞭がふりふり揺れる。
 「いかにも軍は無理だが、小さな監視所くらいは設けられる」
 「監視所?」
 「うむ。ここは街道に近い。輸送を見張るにはうってつけなのだ。
  物資は今の所、警戒されてまで重視する必要はない。だが…
 「いみじくも今日、周公旦が言っておったように、情報の流通を
  握ることは確かに重要なのだ。
 「人や荷の出入りや数・種類・行き先、中央よりの使者の有無や
  頻度。経済程度や、民心の方向性。
 「それらを、この位置で把握しておけば必ず後々役に立つ」
 「なる、ほど…?」
 難しくなってきた。
 だが天化は頑張っている。
 「それで、だ。
 「本来ならば、わしが直接統括したい分野ではあるが…事は人界
  のこれからに大きく関わって来る。ゆえに、ここはおぬしの父
  に任せようと思う。
 「詳しくは後で指示書を出すが、おぬしには武成王の案内と手伝
  いを頼む」
 「手伝いって…戦いの方は…」
 「暫く外れてもらう」
 「スース!」
 「おぬしには休養が必要だ」
 太公望の声は厳しかった。
 「けどっ…俺っち、…」
 「天化よ、
 「わしは状況に合わせ、各人に適所を配さねばならぬ」
 「…!」
 言い切られて天化は黙った。
 納得したのでないことは、握った拳の白さが語っている。
 「明日、武成王とおぬしに正式に辞令を出す。
 「拒否は許さぬぞ」
 椅子の跳ねる音。
 勢いよく立ち上がり、天化は黙ったまま顔を伏せている。
 扉へ向かう背を、軍師の声が追った。
 「返事は」
 「…っ…
 「わかった、さ!」
 叫び捨てて足早に室を出た。
 がしがし外に向かう。
 頭を冷やしたかった。
 気がつくと、練兵場に戻っていた。誰もいない。
 もう篝火も落とされ、歩哨の姿もやや離れた門にしか見えない。
 ただ、明るい月光にものの影がやわらかく浮かび上がっていた。
 天化は立ったまま、タバコに火をつけようとした。
 うまく行かない。
 「天化くん」
 背後で声がした。
 今一番見たくない顔、楊ゼンに違いない。
 太公望の信頼も厚い天才道士…
 黄家の次男は、彼にしては緩慢な動作で振り返った。
 楊ゼンは木箱に腰を下ろす。
 「少し、羨ましいね」
 ぽつりと言った。
 「何が、さ…?」
 「太公望師叔に、あんな風に全身で依存できるのは君だけだから…」
 「依っ…俺っちは!」
 「違うって言うのかい?」
 あくまで穏やかに問い返され、天化は押し黙った。
 依存。
 この気持ちが?そうなのだろうか?
 もやもやした、不透明な欲求。
 太公望を守りたい。
 そのためにも、彼に認められたい。
 …それだけでなく…?
 「あの人の腕の中は広い…君の気持ちは分からなくもないよ。ただ、
  師叔にも立場があるからね。
 「皆の目の前で軍師としての命令を拒まれれば、君を処罰しなきゃ
  ならなくなる」
 「そっ…んな、こと…
 「わかってるさ!」
 天化が激しい調子で遮る。
 そうとも。
 わかっている。頭では。
 太公望は、どこからどこまでも自分のために言ったのだ。
 だから余計に…
 自分がお荷物に思えて切ない。
 俯く剣士を、天才道士はじっと見守っている。
 ややあって、今気付いたという風に天を仰いだ。
 「ああ…
 「今夜は満月だね」
 天化の肩が動く。
 「…?」
 悔しいような情けないような顔のまま、こちらも視線を上げた。
 ふくよかな月が、慈しむように大地へ諸手を拡げている。
 「師叔みたいだと思わないかい?
 「日ほど眩しくなく、
 「星ほど高くない。
 「時に眠りを守り、謀を隠し、不実にも優しくも見えて…
 「近くにいるようで遠い」
 「…よく、わかんねえさ…」
 楊ゼンが何を言いたいのかは尚更。
 「そうかい?」
 「え」
 「キミが本当にわからないなら、僕も気が楽だよ」
 天才道士はすいと立ち上がった。ぱんぱん服の裾をはたく。
 「僕はもう寝むよ。邪魔したね。
 「お休み」
 「あ、ああ…」
 すたすた陣屋に戻っていく後ろ姿を、天化はへんな顔で見送る。
 一体何だったんだ?
 「そうそう、天化くん」
 蒼い髪が急に翻った。
 「師叔を悲しませるような真似は、許さないよ」
 ぽろ。天化の口から、火をつけないままのタバコが落ちた。
 やっとわかった。
 楊ゼンはライバル宣言、あるいは釘を刺しに来たのだ。
 しかも、言うだけ言ってさっさと去る…
 天化は前髪をぐしぐしつかんだ。
 「参ったさ…」
 見上げると、満月は相変わらずぽっかり浮いている。
 淡い黄輪に、太公望の顔と楊ゼンの台詞が重なった。
 『師叔みたいだと…』
 「かもしんねえ」
 望月。
 人に慕われ、人を抱き取るまるい光。
 それと気付かせずに人を守る導きの杖…
 深い息が洩れた。
 どうも、前途に難は多そうだ。




 

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