光の杖(WJ封神演義・天化×太公望)


一章 おしえて!太公望師叔 

 「スースよぉ」
 尻餅をついた太公望に手を貸しながら、黄天化は呆れた声を
出した。まっすぐな漆黒の髪が、ゆるい風にさらりと揺れる。
 「あーた、運動神経キレてるさ?」
 でも口は悪い。
 「うっ…うるさいのう」
 太公望の口が曲がった。小柄な身を起こし、服の裾をぱんぱ
ん叩く。天化に持たされた木剣を放り出すと、帽子の角をちょ
いと直した。
 「わしに、おぬしと同じように剣をつかえるわけがなかろう」
 「まあ、そりゃそうさ」
 あっさり認められるのもまた業腹なのか、太公望は微妙に片
眉を上げる。
 「ムウ…
 「大体だな、神経などというものは誰でもつながってはおら
  ぬのだ」
 「?
 「それじゃ動けねえさ」
 「ふむ」
 周王に朱筆を預かる軍師は打神鞭を取り出した。
 「では聞くがよい」
 教鞭よろしくぴこぴこ振る。
 片手を腰に当てた時には、トクイな語りへ持ち込めて機嫌が
うるわしかった。
 「ヒトの脳は、およそ百四十億個という神経細胞から成って
  おる」
 「ふんふん」
 「この神経細胞は、本体であるニューロンとそこから出てい
  る樹状突起、さらにそれから延びる軸索と呼ばれる神経線維
  から成り…
 「またまた枝別れした軸索の先端が他のニューロンや樹状突起
  と接触し、回路を構成するのだ」
 「ふんふ…ん?」
 「ところがだ。
 「さきほど接触と言ったが、正確には軸索とニューロンは直接
  つながってはおらぬ。わずかなスキ間があいておるのだ」
 「スキ間って…
 「じゃ、どうやって伝達するさ」
 「うむ。
 「このスキ間を、シナプス間隙と言ってのう。ここは、化学
  伝達をおこなう物質で充填されておる」
 「化学伝達?」
 聞き慣れない単語を大量に耳にして、天化の表情がちょっと
怯んで来た。
 「感覚器官の受けた刺激の信号は、電位差により上位神経た
 る脳や脊髄へと伝達されて行くが…
 「シナプスは、この信号を化学情報に変換して先へと送り出
  しておる」
 「何のためさ」
 太公望はニヤリと笑った。
 よくぞ聞いてくれた、ってカオである。
 「ナタクのことを考えてみよ」
 「宝貝人間?」
 「太乙もまあ頑張ってはおるが、あやつの感情はごくシンプ
  ルであろう?
 「そのせいで却って混乱してもおるようだが、それは余談と
  して…
 「ナタクは体内の情報伝達に際してデジタル信号を利用して
  おる。ゆえに反射反応や運動速度には目を瞠るものがある
  が…反面『どちらとも明確でない情報』、すなわち感情の
  表現を苦手にしておる。
 「対して、生物はシナプスの働きによりアナログ的な伝達を
  利用することができ、ために機械とは異なり感覚的な情報
  を瞬時に大量に処理できる。
 「…と言われておる。もっとも、それを言語によって表現す
  る種族はヒト始め限られておるがのう」
 「…??」
 天化は混乱している。太公望もそれに気がついた。
 「ふうむ…おぬしとて、頭は悪くないはずだが。もう少し
  ものを考える習慣を…
 「いや、要らぬか。おぬしはそのシンプルさが良い」
 ぶつくさ言いながら、ついと手を伸ばす。天化の頬をつねり
上げた。
 「てっ!
 「いきなり何するさスース 」
 「痛かったな?」
 「当たり前さ!」
 「ではこれは」
 と背伸びしてデコピン。
 「うゎ」
 「どうだ」
 「痛えってのに!」
 「それぞれ、どう痛かった」
 「どうって、そりゃ…つねられたのと、はたかれたみたいに
  痛えさ」
 「そのまんまだのう」
 太公望が苦笑した。
 「まあよい、そういう事だ。
 「おぬしの言語は散文的だが…同根異種の刺激を受けた場合、
  感じ方の違いというものがある。
 「今の場合、おぬしはたとえ目をつぶっていてもわしが何を
  したのか感じ取れるであろう?
 「つねられればつねられたように、はたかれればはたかれた
  ように痛い。痛みという信号が同一であっても、感じ方は
  それぞれ異なる…
 「どう痛いか。どう快いか。
 「そうした、パーセンテージでは説明しきれぬアナログ反応
  を生み出しているのが、シナプスというわけだのう。
 「ま、大雑把な説明ではあるが」
 「…えーと…」
 天化の眉が寄った。
 莫邪の宝剣のホルダーを軽く叩き、ほこほこした雲を置く空を
見上げる。
 「つまり、そのしなぷすってのは…
 「気持ちのありか、ってことさ?」
 「おお」
 太公望が目を瞠った。
 「おぬし、たまにいいことを言うのう」
 「たまには余計さ」
 軍師は晴れやかに笑った。
 このペテン師、マトモに笑うと、ずいぶん透明な顔をする。
 「気持ちのありか、か。そうだのう。
 「わしはおぬしの、そうやって体で感じてゆく所がスキだよ」
 なぜだか胸を突かれ、天化は太公望を凝視する。
 「ん。どうした?」
 「あ、いや…何でもねえ…」
 珍しく歯切れの悪い声に、正午の時鐘が重なった。軍師が目
を輝かせる。
 「おお、もう昼か。帰るぞ天化!今日のおかずは何かのうっ!」
 「炒合菜(野菜炒め)って聞いてるさ」
 「これっ、先に言うでない!楽しみが減るではないか!」
 「……」


 日暮れになった。
 うすい宵闇を黒く切り取る山々から、残照を払って風が渡る。
風は若い草の匂いがした。
 「今日もいい汗かいたさ」
 天化はハナ歌を歌いながら肩に手拭いを引っかけ、部屋を出
た。ぶらぶら歩きで本陣奥の湯殿へ向かう。
 途中、太公望の房の前を通りかかった。
 灯が入っている。ついでに誘おうかと扉にかけた手を、話し
声に気付いて止めた。
 「…難しいね。
 「太乙アイで隠し撮りした映像だけじゃ結論までは出せない
  けど…私も初めてのケースだからなあ」
 太乙真人の声だった。崑崙から降りて来ているらしい。
 (またにした方がよさそうさ)
 と天化が踵を返した時、
 「そうか…」
 沈痛な太公望の声が聞こえた。聞いた事のない声調子に胸が
ざわついた。
 (スース…?)
 「天化くんはどう言ってるんだい?」
 再び太乙の声。完全に足を止められた。
 (俺っち?)
 「あの傷、痛むんじゃないかなあ」
 (……!)
 察するに、二人は自分の受けた傷、あの妖怪仙人余化に受け
た腹の傷について話し合っているらしい。
 そしてそれは、太乙真人にも治療の方途がつかないのだ…
 いやちょっと待て。太乙アイ?隠し撮りって…
 「天化は…」
 太公望の声に苦痛がにじんだ。天化は注意を引き戻される。
 「天化は言わぬ。痛いとも、苦しいとも…
 「あやつは、子供なのだ。
 「心配する側の気持ちには気付かず、一人で虚勢を張るのが
  一人前だと勘違いしておる」
 「君もそーゆー所あると思うけど」
 「わしと天化では立場が違う。第一、わしは他人で済む所は
  他人を使っておる!」
 「うーん、そうかなあ」
 「いつか道徳も心配しておった。あやつは、自分の危うさを
  まるきりわかっておらぬのだ」
 「太公望…」
 太乙が息を呑む気配がする。太公望は、どんな顔をしている
のだろう?
 「金鰲の沈黙も長くは続くまい。戦いになれば、天化の負傷
  は痛すぎるハンデだ」
 「彼を失いたくないんだね」
 「うむ…」
 天化の心臓が跳ねた。理由は判らない。
 「誰も、ひとたび仲間と頼んだ者を失いたいわけがなかろう
  よ」
 「…そうだね。
 「まあ、また雲中子とも相談してみるし、あまり気に病まな
  い方がいいよ」
 「そうだのう…
 「手間をかけた、太乙」
 「いやあ何、君の義手のデータを取るついでだよ。ナタクの
  調整もあるしね」
 話が終わりそうだと見て、天化はそっとその場を離れた。
 ので彼は、この先を聞かずにすんだ。太乙は言ったのだ。
 「いっそ天化君も、うちのナタクみたいに改造してみるとか…」
 「だああっ、やめんかい!」
 …☆
 さて、天化は急ぎ足で湯殿へ向かう。
 何やら無性に悔しかった。だが、何がなのだろう?
 「おう天化」
 湯殿の戸を乱暴に引き開けると、でっかい人影が振り返った。
 「親父」
 「傷の具合はどうだ?」
 「別に…変わんねえさ」
 また傷か。
 「なんだ、何ふててる」
 ばさばさ服を脱ぎ捨てる息子に、武成王は面白そうに尋ねる。
手拭いを肩に引っかけるのはいいが、前も隠そうとしやしねえ。
 「別にふててなんか…」
 と天化が振り返った時にはもう、どかどか湯場へ降りて行っ
ていた。
 「聞く気ナシかい;」
 仕方なく後に続く。
 かっぽーん…
 誰もいないが、桶音は約束だ。
 親父はシャンプーのボトルをつかんで何か考えている。洗い
桶を取り、天化もシャワーの前に座った。
 「太公望どのが言ってたんだがな」
 「あん?」
 「パン○ーンっつーシャンプーがいいらしい。トリートメン
  トが…なんつったかな」
 「Vo. ×さ。前にスースが持ってたぜ」
 「おう、それそれ。猫っ毛にゃ最適だってたな。
 「けど俺が借りてみたら、やたらに髪がフワフワしちまって
  よぉ…ありゃ参ったぜ」
 そう言えばそんな日があった。
 しかも。その時親父は、フローラルな香りを放っていたものだ。
天化はトニックシャンプーをわしゃわしゃ泡立てながら苦笑した。
 「だからよぉ」
 武成王の語尾は湯をかぶったせいで不明瞭になった。
 「何でも『向き』があるってこった」
 「へっ」
 「何フテてんだか知らねえがな、オメーは悩むのにゃ向いてね
  えぜ?」
 「そっ…そんなんじゃねえってのに」
 「まあ、何があったか言ってみろよ」
 天化は父親から視線を逸らした。
 「後になるほど言いにくくなるぜ」
 「……
 「スースに、子供って言われたさ」
 「その通りじゃねえか」
 簡単に言って、武成王は湯船につかりに行く。勿論、意味不明
な嘆声を放った。
 「うぃー。
 「おっ、なんか今日の湯は違うな。柔らけえ感じがする」
 「ああ…武吉っちゃんが、スースが疲れてるだろうからって
  樫の炭作って来てたさ」
 言いながら天化も湯に入る。
 「へえ。
 「風呂は、太公望どのが好きだからって楊ゼンくんの特別設計
  だし…好かれてるな、軍師殿は」
 「理由が判らねえさ」
 「嘘つけ」
 また簡単に言われてしまった。
 「太公望どのはよぉ、違うんだよなあ。
 「俺もいろんな奴に会ったが、あんな的確に人間を見る人ア
  初めてだぜ」
 「人間を見る?」
 「あー。状況を理解する奴はいる。そっから、先を予測する
  奴もな。
 「けど、太公望どのはなあ…人間を理解してるってやつだ。
  だから、先の展開が読める。予測じゃねえ。
 「見た感じはなあ…まあ、てんでそんな気もしねえけどよ。
  あの人ア、深えぜ」
 「……」
 親父の言葉ではあるが、本当だろうか。
 天化は頭の片隅に奇妙な嬉しさを覚えながら首をひねった。
 「オメーもよ」
 武成王は指先で湯を弾き、次男にひっかけた。
 「わかって欲しいんだろ?わかってくれると思ってんだよな」
 「!なっ…」
 「別に、だから子供だとかじゃねえ。恥ずかしいこっちゃね
  えよ。むしろ、わかってくれるって思える相手がいるなア
  幸運ってもんだ」
 武成王はぽりぽり鼻の横を掻いた。少し照れているようだ。
 「俺アよ天化、誰かをそんな風に信頼できるオメーを自慢に
  思うぜ。ただな…
 「わかってくれってセリフは、相手に甘えてなきゃ吐けねえ。
  そのへんはちゃんと自覚してろな?」
 「親父…」
 やはり親父は大きい。
 天化は鼻の下まで湯につかりながら、まだふてているような
こそばゆいような、複雑な気分でいた。

 

BACK  OR  NEXT