購いの街 〜MADARA・天使篇より〜
                 みなみ なみ

 「マダ…ラ…」
 犬彦は、無意識の深淵からゆっくりと浮上するその名を呟いた。
 御伽話の…
 想像の中の、少年の名だった。
 かつて彼とキリンはその名を求めて二年の月日を彷徨い、ついに見出し得なかった。
 二人は、それは夢だったのだと…
繰り返し眠りを揺すぶった『前世の記憶』は、幻だったのだと結論し、旅を徒労の裡に終わらせたのだ。
 だが…
 今。ここに、ガレキを踏まえ再生の天使のように立つ少年から受け取る、この高揚感はどうだ。
 存在の暗処より立ち昇り、四肢を満たし血を騒がせる充足感は。
 これこそが、彼らが捜しさまよった名の与うべきものだった…
 「マダラ、なのか…」
 かすれた声がもう一度呟く。
 深いところに封じられたはずの記憶が、出口を求めてうずいている。
 燃えるような赤毛を、彼は片手でかき回した。
 何をバカな…ただのガキだよ。
 俺は何を言って…
 少年が、はにかむように笑った。
 「ああ、オレだよ。久しぶりだな。
 「…聖神邪。」
 犬彦の中で何かが弾けた。
 言いようのない歓喜と不安。
 その名を彼は知っている…
 真の名を封印する存在名(コード)。
 (夢の中で、オレはそう呼ばれてた。共に生きる人々に…
 (…マダラに。)
 記憶の蓋がゆるむ…
 彼の血に刻まれた希望が、葛藤が、目覚めの時を待ってうねり始める。
 軽い目眩を感じ、彼は壁に手をついた。
 すすけた冷たさは、決定的な瞬間が逃げていった感触として掌に伝わった。
 マダラが何か言った。
 「え。」
 顔を上げる犬彦に、少年はすこしテレた笑みを向ける。
 「まさか、聖神邪の子供になるとは思わなかったな」
 言葉の意味がすぐにわからない。
 犬彦は、混乱する頭を何とかまとめようとタバコに火をつけた。指先がわずかに震えている。
 『もう、タバコ吸いすぎよ犬彦。』
 女医のメゾ・ゾプラノが過去を震わせ、不意に理解が落ちて来た。
 「… 」
 彼を見つめる大きな瞳、夢見るように呟いた細い声。
 『赤ちゃん……できたかもしれない。』
 「キリン…っ…!」
 彼女は本当に身ごもっていたのだ。
 自分の子を…彼がマダラと名付けた、そうして確かにマダラであった子を!
 幾星霜を経て胸に再来する喪失感に、犬彦はみじかい息を吐いた。
 『守ってくれるよね、何があっても。』
 甘えを含んで悪戯っぽい、けれど真剣な声が脳裏に蘇る。
 (俺を信じてたあいつを、俺は守ってやれなかった…
 (挙げ句に、あいつが最期の瞬間に誰の名を呼んだのか気にしてる始末、か。)
 マダラは顔をしおしおと曇らせている。
 「キリンは、自分の命でオレたちを購ってくれたんだ…」
 犬彦の眉が寄った。
 「オレたち、を…購う?」
 力の抜けた指先からタバコが落ちる。
 犬彦の足元から上る紫煙を見つめながら、マダラは軽く目を伏せた。
 「記憶も…力も失くしてたのに、キリンは『妣』だった。」
 妣。愛する者を守護する母なる力の顕在…
 犬彦を疑問が打ちのめす。
 なぜ、オレはそんなことを知ってるんだ?
 「命と引き換えに護ってくれたんだ。
 「オレと…聖神邪、お前を。」
 「俺…を…キリンが?
 「なんで、何から…」
 答えは返らなかった。
 「聖神邪。」
 黒い、真剣な瞳が彼を見つめている。
 既視感。
 混乱するばかりの自分を持て余す犬彦を、放浪の記憶がかすめた。
 キリンとの2年ではなく、マダラを求め、共に転生するべき…を捜して、たった一人で、世界を…
 …?誰を捜して?
 頭が痛い。
 「戦いが近いんだ。」
 マダラがぽつりと言った。
 「俺は、今度こそ決着をつけなきゃ。」
 犬彦はその言葉の意味を知っているような気がした。けれど思い出せない。
 彼のジレンマを読み取ったか、マダラは軽くかぶりを振った。
 「ムリに思い出さなくてもいいんだ、聖神邪…決めるのはお前なんだから。お前が望まないなら、過去は…ただの夢だ。」
 戦い。決着。俺は何を知っていると言うんだろう…そして何を決めるのだと?
 知っているはずだ、と強く思った。
 だからこそ俺は、…を捜して、永遠にも似た歳月をさまよって…
 まただ。
 俺は一体、どうしちまったんだ。
 増えるばかりの疑問に苦しむ犬彦の前に、マダラはじっと佇んでいる。
 やがて、哀しげにひとつ頷くと、彼はくるりと踵を返した。
 「あ、おい…」
 立ち去ろうとする背中を、犬彦は思わず呼び止めた。少年がぴたりと足を止める。
 「マダラ。キリンが、俺たちを購ったって言ったよな」
 「…ああ…」
 肩口から振り返るのへ、彼は絶望にもっとも近い希望を問いかけた。
 「俺が…今度は俺が、キリンを購うことはできないのか」
 マダラの肩が動いた。
 好き勝手にツンツン立ち上がるみじかい黒髪が、そろそろと左右に揺れる。
 言葉もなく。
 「できない、のか…」
 「……」
 答えはない。
 まだ線の細い背が、振り切るように歩き出す。
 今度はもう振り返らない旧友(そして彼の息子でもある!)を、残された犬彦は、またも既視感を感じながら見送った。
 「もしもお前が望むなら、俺たちは、必ずまた出会う…」
 少年の後ろ姿を吹き送る風の呟きは、空耳だったか。
 マダラは、『再び』去った…
 そして…
 重圧的な気配が肌に伝わった。
 「なんだっ…」
 慌てて周囲を見回すが、彼のほかに人影はない。
 中空に、声が響いた。
 『購いを求めるか』
 「!?」
 風景がゆがんだ。空気がよじれ、一点を中心に渦を巻いている。
 渦の中心に、人の顔とも…混沌の闇ともつかない黒点が現れ、かすかな笑みの形をつくる。
 『よかろうとも、よかろうとも。』
 嘲笑を含んだ低い声は、嵐を先駆ける雷鳴に似ていた。
 『マダラと出会い、お前の魂は活性化している…望めば、すぐにも目覚められよう』
 先刻の焦慮を思い出す。
 犬彦は激しくかぶりを振った。理由も知らず、この声を信用してはいけないと思った。
 邪悪な、なおかつ圧倒的な意志が彼を打ちのめそうとする…
 『目を開け。お前は血を以て大地を浄め、裏切りを以て天を救う者…世界にお前は唯一、
  望むならばマダラをさえ退け、すべてを手にすることができる。
 『記憶を、力を封じられ…
 『導きを失い、
 『なおお前だけが購いを行い得るのだ…赤の戦士ゲド・ユダヤ。』
 マダラを…退けて!?
 「なに、を…言ってやがる…」
 ふ、と意識が暗くなった。
 背中が壁に当たる。
 記憶を、断片的な言葉がかすめる。
 …ルタ…
 永遠の扉
 …度の救済
 …王…殺し……
 思い出すな、と彼の中の何かが警告する。
 「だっ…誰だてめえ、訳わかんねえこと言ってねえで、出て来やがれ!」
 叫ぶ声はかすれていた。
 根源的な恐怖に必死で抗う。
 『つれないことを。
 『私は常にお前の傍らにあり…お前は常に、我が名を知っているではないか。』
 「なんだと 」
 『私は意志。魂を集き、お前たちの血の底に眠る戦いを喚び起こす者…
 『わが名を呼べ。
 『そして望むがよい、お前の望みを。』
 「俺…の望み…は…」
 宙に溶けるキリンの面影。
 彼だけに向ける、ふわりとした微笑…
 「なくなっちまった、もう戻らねえんだよッ!!」
 犬彦は、白くなるほど握っていた拳を壁に叩き付けた。皮膚が破れ、鮮血が散る。自分の血が赤いことに安堵を覚えた。
 『哀れだな、ゲド・ユダヤ…購いの聖者よ。
 『お前はあがき、失い、なおもそうして正気を保ち続ける。己の望みを見ようとせぬ。
 『かつは盲いたまま無益な彷徨に生を費消してゆくのだ…
 『その罪は、あまりに深い』
 「……」
 犬彦は、自分の膝が震えているのを見た。
 キリン。
 お前がここにいてくれたら。その優しい腕で、抱きしめてくれたら…
 いやだめだ。
 ちがう。
 頭の中で、警鐘とキリンの声が交互に響く。
 足元が抜けたような…存在不安。
 ぎり、と歯が鳴った。
 「もう…沢山だ…」
 犬彦の掌が赤光を噴いた。
 嘲笑の気配が一層強くなる。
 『ほう…少し思い出したようだ。』
 「失せやがれ…ッ 」
 嗚咽に似た絶叫が犬彦の喉を裂く。
 球状に膨張する光を、彼は気配へ向かって投げつけた。光に貫かれて黒点が霧消する。
 『…遅い。すでにお前は、己の望みを見た…』
 うすれ、立ち消えていく気配の呟きを聞く余裕もなく、犬彦はがくりと地に膝をついた。
 顎から滴り落ちる汗が乾いた土に浸みる。
 「今の、力…」
 覚えがある。ずっと昔彼らの戦いを助け、いつのまにか失っていた『気』の力。そう、キリンは掌妙勁と呼んでいた。
 「何が…どうなってんだ…」
 天にも地にも、彼の疑問に応える者はなく。


 がん!
 犬彦はアパートのドアを蹴り開けた。
 鍵などかけたこともない…どころか、もう在処さえ忘れてしまった。どうせ盗られる物もない。
 「くそ、何なんだ…」
 小さく毒づいて靴を脱ぎ飛ばす。
 わからないことだらけ、だったならまだマシだったかもしれない。
 思い出せないのだ、とどこかで知っていた。
 まるで闇の中で自分の手足も見失ってしまったような、しょぼくれた気分で三和土に座り込む。
 ふと人の気配に気付いた。
 奥に誰かいる。
 敵意や殺気は感じないが、彼は用心深く振り返った。
 いた。
 ベッドに人が寝ている。
 シーツからはみ出した、長い黒髪と白い肩が最初に目に入った。
 女だ。彼のベッドで、女が眠り込んでいる。
 あろうことか…やわらかく波打つシーツの完璧なフォルムには見覚えがあった。
 (まさ、か…)
 彼はそろそろとベッドに歩み寄る。
 理性が、そんな筈はない…と叫んでいる。
 しかし…と心が希望を呟く。
 呟きは次第に強く大きくなり、理性を圧倒しようとする。
 屈み込んで女の顔を覗き込んだ。
 「……!?」
 一瞬、自分の正気をこそ疑った。
 理性はまだ、そんな筈はないと繰り返している。
 そんなはずはない。けれど感情が叫ぼうとする。
震える指を女の頬に伸ばした。
 昔、彼女が自分にそうしたように。
 あたたかい。
 指先にはりつくようななめらかな肌。
 「ん…」
 女がちいさく呻いた。
 ゆっくりとまぶたが開く。
 「犬、彦…?」
 自分を覗き込んでいる顔に、キリンは、ほっとしたように笑いかけた。
 白い腕が伸び、犬彦の首を抱え寄せる。
 「お、おい」
 「夢、見てたの…すごくこわい夢。」
 「化け物にね、マダラと…ユダヤを渡せって迫られるの。どこだかに戻さなきゃならないとかって言って…
  あたしが守ってるんだって。
 「あたし断って……」
 あとは言わず、彼女は眉をひそめた。
 その死を思い出し、犬彦は思わず細い肩を抱きしめた。
 キリンは気を取り直すように微笑する。
 「ユダヤって、犬彦よね」
 「…ああ…」
 「あたしが守ってるって。こわかったけど、でも…誇らしかった。」
 犬彦は目を閉じた。
 駄目だ。
 もう、駄目だ。
 いくら疑ったところで、彼にはもう、キリンを失うことはできない。
 犬彦は、魂よりの慟哭のさなかでさえ涙を知らずに生きてきた。まるでそれを、何者かに禁じられているかのように。
 なのに今…
 一人の女が自分に笑いかけた。
 それだけのことで、しみ通るような至福に泣きそうになっている自分が不思議だった。
 (そうか、俺はほんとに…)
 「犬彦?どうしたの…って、あら?」
 やっと目が覚めてきたのか、キリンはきょときょと周りを見回して首を傾げた。
 「ここどこ?」
 つられて何となく部屋の中を見確かめ、犬彦は自分に頷いた。間違いなく、
 「俺の部屋だ。」
 「あたし、いつの間に来たっけ。ゆうべそんなに飲んだかなあ…え?」
 やっと自分の一糸まとわぬ姿に気付き、キリンはかるく首を傾げた。
 「ハダカなのはいいとして…
 「あたしの服どこ?」
 こっちが聞きたい、と犬彦は思ったがそうも言えない。
 答えを考えながらそこらを探り、のびきったTシャツを渡してやる。
 「こきたなー…」
 眉をひそめたキリンの顔がすぽんと出て来た。
 不意に、おもしろそうな、どこか得意気な表情になる。
 「わかった」
 「何が」
 「それならそうって、言えばいいのに。
 「もお、ねえ。案外シャイなんだから」
 「ああ!?」
 この女おかしくなったのか。
 狼狽する犬彦の肩をつつき、キリンは
 「そんなに、あたしにここにいてほしい?」
 「はあ?」
 「いるのよねえ、あたしの患者にも。
 「幼児退行してて、帰ろうと思うとあたしの靴隠しちゃってんの」
 「ば、馬鹿」
 「何よ、じゃどうしたの?」
 さらにツッコまれて犬彦は弱りきった。
 突っ込むのは得意だが、されるのは苦手だ。俺はホモじゃないんだし。
 「だから…」
 「うん。」
 黙考3分40秒。
 「…いいよもう、それで。」
 考えるのも苦手な犬彦だった。


 「くそ、何で俺が」
 両手に紙袋を抱えた犬彦が、ブツクサ言いながら通りを歩いている。
 文句をたれながらも、彼は気付いていた。
 ここ数年なかったくらい自分の表情が明るく、動作が軽いことに。
 (そんなにここにいてほしい、か。
 (その通りだって言ってやったら、どんな顔するかな。
 (…まず、チョーシに乗ってイバるな。)
 そんな想像もくすぐったく楽しかった。
 長いこと見失っていた気持ちだった。
 キリンがいなくなってから…彼らを購ってから。胸を突かれたような気がして、犬彦は立ち止まった。
 今度は俺がキリンを購う、と彼はマダラに願い…キリンは戻って来た。
 だが…
 (マダラはできないと言った。)
 では彼の願いは誰が叶え、何によって引き換えられる?
 (俺の命。人生か?それとも…)
 不意に、人通りが絶えているのに気付いた。
 こんな街中で…
 不審のままに視線を四囲に配り、犬彦は愕然と立ちすくんだ。
 舗装路のアスファルトは所々めくれ上がり、傾いだ街灯の足下には粉々に砕けたガラスが沈鬱に蟠っている。
 中ほどでぼきりと折れ、地に頭を垂れる電柱。死んだ蛇のような黒いコードの先に、時折小さなスパークが点る。
 屋根が落ち、壁の抜けた民家の庭先で、灰色の枯れ木が細い枝を祈るように天へ差し上げている。
 すすけた空気が鼻をつく…
 街は廃墟と化していた。
 「バカな!さっきまで…」
 崩壊と再生を繰り返して雑駁な街と、そこにあふれ返っていた人々はどこへ行ったのか。
 混乱する視線の先で何かが動いた。
 反射的に身構える。
 盛り上がったガレキの山に、黒い人影が座っていた。弱い陽光を背負い、死に絶えた世界の墓標のように。
 人影がゆっくりと立ち上がった。
 男だ。とんでもなく背が高い。
 「…誰だ、あんた…」
 犬彦の誰何はかすれていた。
 数時間前に味わったのと同じ恐怖が、再び彼に触手を伸ばそうとしている。
 男が顔を上げた。
 蛇を思わせる口元が笑みの形をつくる。
 「どうだね?この終末の光景は。」
 足下の壊れた人形を拾い上げ、闇そのものの声で言った。
 犬彦の歯が鳴った。
 重く垂れこめる空の下、人の姿もなくすべてが埃をかぶって白ちゃけた世界。
 「てめえの仕業か…ミロク!」
 意識もせずに叫んでいた。
 爆発する哄笑。
 「呼んだな、ユダヤ…私の名を!」
 男の手の中で、人形の足がぽろりともげ落ちる。
 続いて、片方だけ残っていた右腕が、頭が。
 「そうとも、わが名はミロク…世界の破壊を司り 時の埒外に彷徨する者。
 「そしてお前は…」
 「ごたくはいい、質問に答えやがれ。」
 哄笑は始まった時同様、唐突に止んだ。
 「私が世界を滅ぼしたのかと問うならば、答えは否だ。今はな。
 「ここは…の望む予定調和の世界。マダラが敗れ、…に屈すればただちに現実となる。今お前の立つ場所は、
  現実であると同じほど幻でもある…」
 「ちょっと待て、訳がわからねえ…マダラだと?何に屈するって」
 男は、少し考える仕草をした。
 「ふむ。予想以上に強固なプロテクトだな。認識領域にまで干渉するか」
 黒いコートの端が砂塵を巻き上げる風にはためき揺れている。
 「おい一人で納得してねえで…」
 「キリンは死ぬぞ。」
 半ば風に紛れた呟きは劇的だった。犬彦は脈絡もなく放たれた不吉な予言に凍りつく。
 「私の与えた肉体は、あの者の霊性に耐えぬ…いずれキリンは、生きながら腐り始めるだろう」
 「なっ…んだと…!」
 犬彦の脳裏をキリンの面影がかすめた。
 彼にしか見せない、ほわりとした微笑…
 彼女がそんな風に笑うのを、他の誰も知らないのだ。
 「徴候はお前も見たはずだな」
 言い継ぐミロクの言葉に、彼は視線を泳がせた。白い肌の所々にあった、しみのようなアザ。
 体中が痛いと顔をしかめた。
 悦びの声の中に、かすかに苦痛の響きが混じっているようでもあった…
 「ばかな!」
 強く頭を振る犬彦の様子に構うこともなく、闇の王は
 「あの者を苦しめたくないと思うならば、方法は二つ。」
 人形の残骸を投げ捨てた。
 激しい怒りと恐怖に、犬彦は拳を握りしめた。
 「…お前がキリンを蘇らせたって、証拠でもあるのか」
 押し殺した声には憎悪の凶光が宿っている。
 「証拠など。
 「そんなものがなくとも、お前は知っているではないか。私に、それが可能だと。」
 「……」
 犬彦は強く目を閉じた。
 そうだ、俺は知っている。
 知っている理由は知らないが、確かにこの男には『力』がある。
 それに屈してはならないのだとわかってもいるのだ。けれど。
 キリン。
 キリン。
 『そんなに、あたしにここにいてほしい?』
 ああ。
 その通りだ、キリン。
 俺は、もう、お前に死なれたくない。
 「方法、ってのは。」
 ついに犬彦は禁忌に手を伸ばした。
 ミロクが大仰に眉を上げる。
 「肚は決まったようだな、赤の戦士よ。」
 暗黒に祈るように、魔王の声はいんいんと大気を震わせた。
 「そう…お前はマダラの眷属のうち最も神に近い力を具え、故に代価を支払い続けねばならぬ。
 「最も人に近い心という…」
 「寝言はおきやがれ。方法は」
 苛立つ犬彦をおもしろそうに見やり、ミロクは簡単に言った。
 「一つは、お前の手でキリンを殺す。」
 「なっ…」
 「呪われたる聖者よ、マダラをも殺せるお前ならばキリンの魂を終わらせることもまた可能。
 「その手で死を与えれば、あの者は輪廻の中へと回帰し…二度と再びお前の、マダラの記憶を持たぬだろう。」
 犬彦を、自嘲に似た感傷がかすめた。
 あるいはキリンにとっては、その方が幸せなのかもしれない。
 (だが…)
 ミロクは彼の懊悩を、相変わらず面白そうに眺めている。
 うすい唇が再び動いた。
 「今一つは…
 「マダラの許へ行くことだ。」
 「…?」
 犬彦がのろのろと顔を上げた。
 探るような視線がぶつかり合う。
 「キリンとマダラは対となる霊性、互いに影響し活性化し合う。マダラの傍らに在って初めて、キリンはその霊力
  生命力を完全に発揮できるのだ。
 「そうして、マダラの眷属として覚醒したお前は、やがて気付くだろう。
 「お前の隣でよりも美しくなったキリンが、最早お前を見ぬことに」
 犬彦が小さく息を呑んだ。
 「人間風に言うならば、お前は捨てられるというわけだな。」
 かつて味わった不安が想起された。
 マダラを通してのみ会話し共に旅した日々。
 目の前にいながら彼を見ないキリン…
 「俺に、幸福な結末はないってのか…」
 「然り。
 「お前がお前であった初めに犯した罪…真王殺しによって、お前は永遠に呪われている」
 「真王…殺し?」
 「そうだ。魂に刻印されたその呪い、永遠の孤 故にお前は求め続け…」
 「あんたみたいなのに振り回されるってか」
 「それも自ら求めたことだ。」
 切り返す虚勢はかるく受け流された。
 「聖ユダヤよ。
 「立って戦え。いかにあがこうとも、お前の平安はただ戦いの中にのみ存在する…
 「マダラの許へゆくのだ」
 ミロクの語尾が小さくなっていく。
 はっと振り返ると、闇の王は今しも虚空に輪郭をにじませ消えていくところだった。
 「待てミロクっ!何のつもりで…」
 言い果てず、犬彦は口を開いたまま固まった。
 傾き始めた陽がビルの窓に反射し、彼の目を射る。 周囲に喧噪と、人の気配が満ちあふれた。
 元の街だった。
 道行く人々が突っ立ったままの彼をじろじろ眺めて過ぎる。
 (夢でも、見てたのか…?)
 軽く頭を振った時、それに気付いた。
 一つ先の街路樹の根方に、壊れた玩具が放り出されている。
 ミロクの手の中でバラバラになったセルロイドの人形だ。
 犬彦はいきなり駆け出した。
 今すぐキリンの顔を見、声を聞き、この手に抱きしめたい。
 『お前の平安はただ戦いの中にのみ…』
 喪失への恐怖が、彼の全存在をわしづかみにしていた。キリンをか、魂をか。
 そして彼は…
 それが予感であることを、どこかで知っていた。


                    −終−

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